クリエイティブを仕事にする"理由"
65歳になる父がプロデューサーを務めた映画が完成した。
今日ではなかなか見られない、トラディショナルな手法の記録映画。30年以上続けてきた挟持が感じられる。
父に似たのか憧れたのか、僕も映像制作を生業としている。彼がどういう気持で映像を仕事にしてきたのかわからないが、少なくとも僕には「作品を作る」ということを生業にする以外の選択は、到底する気になれなかった。
なぜなら、自分に自信がないから。
自信がないとはどういうことか
まず、自分に自信がないとは、どういうことか、あげてみたいと思う。
・運動が出来ない
・手先が不器用
・勉強も出来ない
・空気も読めない
・人に優しくなれない
など。
などというのは枚挙にいとまがないからである。
これはもう人格が破綻しているというか、はっきり言ってクズである。誰も関わり合いになりたくないであろうし、改善できないか考えるべきだとおもう。
しかし、改善するより先に苛まれる不安が「生きる価値がない」である。
それでも生まれてきたからにはどうにか生を全うするべきであり、それは父への孝行でもある。ではどうすればよいか?
記録に残る"もの"つまり「作品」を作ることだ。
作品作りがどう自信を担保してくれることだ
消去法で考えたい。
営業職は何かを売った記録はあれど、物体は伴わない。売上高が数字で出ても目の前に札束が並ぶわけではない。
経理はどうだろうか? お金の処理が以下に精緻であっても実体は伴わない。
物質として何かしら残り、なおかつ出来事を記録することが、存在を担保する。
「その場にいたことの証拠」になる。
その証拠が人に喜ばれることであれば、人を喜ばせた記録が残る。
これは僕にとっての存在証明である。
たとえばもっと分かりやすいのは、工芸などものづくりだ。
「私はこれを作りました」と指を指して言える。手にとって言える。
これはとてもうらやましいことだ。
自らの手で作り出した逸品が存在証明になる。そんな幸せな仕事はなかなかないだろう。
が、残念ながら僕は手先がとても不器用だ。素晴らしい仕事はかなわない。
そう考えて選んだのが、学生の頃に取り組んだ文芸創作だったり、今生業としている映像制作だ。
才能の有無をどう乗り越えるのか
映像制作の最も素晴らしいところは、一人では何も出来ないところだ。
チームで作らなくてはならない。
劇映画であれば出演者と撮影者が無くては成り立たないし、ドキュメンタリーも取材者と撮影対象がいなくては成り立たない。そしていずれもコミュニケーションを必要とする。
なおかつ独りでできることは限られており、数十名が連携しリスペクトしながら一つの作品を作り上げる。これに与することで、自分に才能がなくとも、多くの有能なスタッフにくっついていくだけで、素晴らしい作品を自分の存在証明に出来るのだ。
ウルトラテクノロジスト集団・チームラボの猪子氏はこんな感じのことを語っていた。
「これからはチームで何かをすることが問われる時代。個でテストの点数を競うとか競争するのではなく、如何に力を合わせられるか、未来はそういう時代だ」
そういう時代は、僕みたいな人間もすごく生きやすくて、すごく良いなと思う。